高野辰之博士記念ルーム
登録:2024年12月28日
明治から大正の教室をイメージして作られた『視聴覚エリア』では博士の紹介VTRを上映。『展示エリア』は博士の人生や業績を年齢順に紹介。また、貴重な資料や書画などの収集品を展示。
博士の書斎も復元展示しています。
高野辰之の故郷|文学|学問観|童話論|音楽|斑山文庫|対雲山荘
辰之と故郷
辰之は明治9年、水内郡永江村(現中野市)に、父高野仲右衛門、母いしの3男3女の長男として生まれる。辰之の歌の作詞、童話の発掘、学問や生活のすべての中に溢れる純粋一途な温かい人柄やその大器となる基盤を育てたものの一つは辰之を取り巻く豊かな自然環境であり、もう一つは厳しさと慈愛に満ちた家庭環境であった。家は代々農家であったが、父親は優れた教養と高い道徳観の持ち主で、小布施の豪商で有名な陽明学者、芸術家であった高井鴻山の開いた高井塾の塾生で農業のかたわらに、月数回、尊敬する鴻山の元へ通いつめて苦労しながら勉強に励んだ。
辰之と文学
辰之の本格的な文学研究は長野県尋常師範学校卒業後の上田万年との出会いに始まり、その文学好きは幼少年期からである。著書『古文学踏査』の中で「私は元来古文学が好きで、14~15歳の当時博文館出版の日本文学全書24巻の第1編竹取物語、伊勢物語から鎌倉、室町の近古文学まで読み通した」と語っている。15歳で下水内高等学校を卒業し、母校の永江学校の教師を2年間勤め長野師範に進学して4年間、島木赤彦、太田水穂などとも交友を深め、和歌詩歌などを多く詠み、20歳の夏、秘境秋山を探訪した紀行文(信濃教育124号)には和歌3首を載せている。
辰之と学問観
辰之の学問の底流には「人間の喜びや悲しみの叫びが歌謡の起源、身振りは舞踊、物真似は演劇の起源」という考えがある。『日本歌謡史』『江戸文学史』『日本演劇史』は代表的著作で、その研究は別々のものではなく、辰之の学問の世界を構築している。辰之の研究は実証的で、資料の収集と検討分析に力を注ぎ、日本の歌謡・演劇・民俗芸能の学術的研究に前人未踏の世界を開いた。またそれは、様々な時代に生きた人間の心に深く触れる日本文化の再発見であった。
辰之と童話論
辰之は明治40年の覚書きの中で「その国の童話にはその国の国民思想がこもっている。今日の小学校国語読本は、日本より外国の童話を多く採用している。自分の屋敷の美しい朝顔に気付かないで、隣から貰った朝顔を眺めているようなもの・・・」と、嘆いている。辰之はその頃、全国の小学校に依頼して各地に伝わる童話類の発掘をし、その再話作品をおよそ50作、春陽堂から『家庭お伽話』として明治39年から45年にかけて発表している。
辰之と音楽
辰之は、明治の終わりから大正の始めにかけて作曲家岡野貞一と組み、『日の丸の旗』『紅葉』『春が来た』『春の小川』『故郷』『朧月夜』などの作詞をした。日本人に長く愛唱されているこれらの歌には、故郷によせる優しい思いがこめられている。歌う人、聞く人の誰の心にも親しみと日本人が持つ叙情への深い共感がわく名曲である。辰之の全人生をかけた学問的業績もすべては同じく日本の心の故郷を求める仕事であった。
辰之の作詞した尋常小学校唱歌
- 日の丸の旗/白地に赤く、日の丸染めて・・・(一学年)
- 紅葉/秋の夕日に照る山紅葉・・・(二学年)
- 春が来た/春が来た、春が来た・・・(三学年)
- 春の小川/春の小川はさらさら長る・・・(四学年)
- 故郷/兎追ひしかの山・・・ 朧月夜/菜の花畠に・・・(六学年)
辰之の作詞した校歌
「校歌には、その学校の建学の理想が盛られ、校訓が含まれなければならない。生徒は校歌を歌うことを通して生徒としての自覚を深め、誇りを持ち、励まされ、時には戒められ正しく導かれる。校歌はそういう役割を担うものである。その為に校歌は、七五調で親しみやすく口ずさみやすいこと、動揺のない自然の山河などの地方色を含み、比喩は山河に結びつけること。日本の国民性、健全性を大切にし、偏らない中正の考えが含まれること。いつまでも歌い継がれる永遠性を持つこと。」
このような博士の想いは、博士作詞のすべての校歌にこめられています。
博士作詞の校歌がある主な学校=旭川北都高等女学校、飯山南高等学校、下高井農林学校、長野高等女学校、松本商業学校、奈良県師範学校、本庄高等女学校、中野農商学校、静岡県浜松中学校、門司高等女学校、など全国百数十校
斑山文庫
斑山(はんざん)と号された博士は学問研究の生涯において古今の、書画等を数多く収集されました。学問上、日本文化の面からみても大変貴重な物です。博士は書画を保存するため、昭和3年に2階建て土蔵造りの書庫を建て、それを『斑山文庫』と称しました。文庫は昭和20年の東京大空襲にも耐え、貴重な品々を今に伝えます。
日高川雙紙
道成寺縁起の異本。話の筋は16才の姫君が清水寺の賢学という若僧を恋う話。博士の所見によれば、酒井家伝来の伝、土佐光信筆『日高川雙紙』(重文)を、寛文5年(1665)に住吉如慶が模写したとされる。
人形を迎える歌
博士自作の人形を迎える歌の自筆の書幅。これは昭和2年、アメリカの子どもたちから日本の子どもたちへ友情の親善使節として青い眼の人形が贈られてきたときに作られた歌。
御前講話を了へてよめりける歌
昭和3年6月4日、日本赤坂離宮において天皇陛下に『日本歌謡の変遷について』をご進講申し上げたときの感激を詠じた詩。
対雲山荘
昭和9年夏、博士は野沢温泉の麻釜の近くに廃屋を求め、改造して別荘とし、これに『対雲山荘』(たいうんさんそう)と名付けました。以後、毎年夏の間、大好きな温泉にたっぷりと浸かれる野沢温泉に家族とともに訪れ、仕事や散策をしながら滞在し、村民との交流を深めました。昭和18年、東京から住まいを移し、晩年はお気に入りの野沢温泉で悠々自適に暮らし、昭和22年1月、70歳で亡くなりました。